Neurohog Reports

日米英で学校を卒業して、それぞれの大学・研究・テニス・海外生活について記事と漫画にしています。

脳の地図、コネクトームで脳は理解できるのか?【Connectome/大脳解剖は無理?】

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コネクトーム(Connectome)自体はあまり馴染みのない言葉かも知れません。しかしその概念はかなりシンプルで、脳を作っている神経細胞のつながりを明らかにするマップ、つまり脳の地図です。多くの神経科学者たちが苦心するコネクトームとは一体何なのか、果たしてコネクトームの先に脳の理解があるのか。この記事ではこの辺りを中心とし解説していきたいと思います。

 

 

 

コネクトームって何だよ

コネクトームのはじまり

科学者が最初に膨大な生体情報のデータベース化を測ろうとしたのは遺伝子配列です。これは1998年の線虫に始まり、ショウジョウバエ、マウスなどの遺伝子配列が完全解読されました。*1 人間もあと数パーセントと言うところまできています。*2 遺伝子の解読という大仕事がひと段落した2005年頃に初めて、遺伝子のgenomeに対応して脳コネクションのconnectomeという単語が登場します。あらゆる研究に役立った遺伝子解読のような科学への貢献を目指して、特に認知神経科学分野等での利用を目指して脳の地図作成が始まりました。ちなみにコネクトームを提唱したうちの一人は当時大学院生でした。*3

 

完成版コネクトーム、あります

何を隠そう、線虫の脳*4 に関してはコネクトームが完成しています。全長1ミリで神経細胞の数はわずかに302個*5 と恐らくコネクトームの最も作りやすい生物の1つだったでしょう。完成の際にはScience、アップデート時にはNatureに論文が発表され、そのデータは誰でもアクセスできるオープンな状態にしてあります。このコネクトームデータベースにはどの神経細胞がどの神経細胞と幾つのシナプスとギャップジャンクションを作っているか、つまり全ての神経細胞同士の繋がりが完全網羅されているのです。*6

私自身も幾度となくこのデータベースの恩恵に預かっていますが、2019年現在完成されたコネクトームは線虫のものしか存在せず、その強力な恩恵を受けるのは線虫を扱う神経科学者のみとなっています。

 

いろんなレベルのコネクトーム

細胞レベルのコネクトーム

細胞レベルとは文字通り、神経細胞1つ1つのコネクションを地図化するもので、前述の線虫コネクトームはこのレベルになります。方法はいくつかありますが、線虫の場合では線虫を凍らせて極薄に切り取ってスライスにした物を電子顕微鏡で撮影し、無数の電子顕微鏡画像をもとに神経細胞の物理的な位置と繋がりを再構築する形がとられました。

電子顕微鏡を使うのはいわゆるゴリ押しの方法ですが、これは神経細胞が302個しかない上に全長1mmという大きさの線虫ゆえにできた芸当です。人間など脳が発達している動物では神経細胞は数百億以上に登るので、同じ方法ではコネクトームの構築は難しいでしょう。

そのハードルを突破するため、蛍光タンパク質を使って個々の細胞を100色近いバリエーションの色で染める「Brainbow」という技術や、個々の神経細胞に固有の遺伝子バーコードを与える「BOINC」など様々な努力がなされています。

 

部位レベルのコネクトーム

前述の通り、複雑な脳を持つ生物で細胞レベルのコネクトームを作成するのは非常に大変で、まだまだ先の話です。しかし、fMRI等の守備範囲まで解像度を下げることで「この辺りの神経細胞たちはあの辺の神経細胞たちと繋がっている」というレベルのコネクトームは構成することができます。いわゆる大雑把な地図ですね。当然細胞レベルのコネクトームほどの力はありませんが、脳は部位が機能別にわかれていることも多いので、認知神経科学分野ではそのようなデータでも十分役に立つと考えられています。

この手法で難しいのは、脳を部位ごとに分けるときにどう分けるかがいまいちはっきりしないところです。これはどこからどこまでが特定の機能を持っているかがわからない為で、それこそコネクトームを作りながらより正確な物を作り上げていくしかありません。

 

コネクトームで脳が分かるか?

コネクトームは役立つが、それだけでは脳は分からない

2012年にコロンビア大学でコネクトームが本当に役に立つかというディベートが行われました。*7 構造だけでは何も分からないからコネクトームに莫大なリソースを投入する価値はないという主張の中でやり玉に挙がったのが、当時既にコネクトームが完成していた線虫において構造が完全に分かったのに、線虫の動きを再現する完全神経回路モデルが作れていないことでした。完全コネクトームに加え、全神経細胞同時測定までできる今でも線虫の完全神経回路モデルができないところを見ると彼らの主張も分かる気がします。脳の完全再現なんかがコネクトームだけで完成することはないのです。

しかし、当時数々の線虫を扱う神経学者が反論したように、ほぼ全ての線虫神経科学研究はコネクトームの恩恵にあずかっているという側面もあります。コネクトームでコネクションを見て、そこから仮説を立てたり、実験を組み立てたりと「ツール」としては非常に有益だったわけです。

 

線虫コネクトームから分かったヒトのコネクトームが役に立つかもしれない理由

線虫の神経細胞のコネクションの中には、繋がりがわずかにシナプス1つや2つというものがあります。このような弱いコネクションはたまたまできちゃったコネクションと考えられてきましたが、コネクトームを作成し実験をしていくと、近年になって弱いコネクションは偶然の産物ではなく、重要なコネクションの場合があるということがわかってきました。

このような弱いコネクションがヒトやマウスの脳にもあると考えると、コネクトームでそういった弱いコネクションを探して実験することで、脳の情報処理の仕組みの理解が進むことは大いにあり得ると思います。またfMRI/MRIの解像度ではそのような弱いコネクションまでは掴めない可能性も高いので、脳の一部分でも切り取って細胞レベルのコネクトームを作るというのにも大きな意味があるかもしれません。*8

 

考えなければいけないことは他にも

コネクトームには検討されなければいけない点が多数あります。

  • 物理的なつながりだけ切り抜いてシナプスの繋がりが分かってもシナプス外から放出されるneuropeptideは無視状態 *9
  • 神経細胞に付随し、その活動に干渉するグリア細胞も無視されている*10
  • 神経回路には可塑性があり、コネクションはあらゆるスケールで刻一刻と変わっている*11

などが代表的な問題、課題ではないでしょうか。

 

それでもあったら便利

それだけでは神経回路は理解できないとはいえ、あれば研究者からすれば非常に便利で、神経科学界に貢献することは間違い無いでしょう。またコネクトームを作ろうとする工夫の中で生まれた技術が他の測定、イメージングに役立つこともあると思います。何より人の脳が完全に地図化されたらすごい。皆さんもコネクトームという単語に少し注意を払って科学ニュースを見てみてはどうでしょうか。

また何かしらの誤載、訂正があればコメントにてお知らせください。順次対応します。

 

はりねずみ的にまとめると

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参考文献

The Connectome of a Decision-Making Neural Network | Science

Whole-animal connectomes of both Caenorhabditis elegans sexes | Nature

The complete connectome of a learning and memory centre in an insect brain | Nature

The Connectome Debate: Is Mapping the Mind of a Worm Worth It? - Scientific American

 

 

 

*1:ここで言う完全解読とは遺伝子の配列、つまり塩基の並びが分かったと言うだけで、実際の機能までが分かった訳ではありません。

*2:一度は解読終了宣言が出されましたが、まだあったわという修正が相次いでいます。最も線虫でも修正が出たりするので厳密にはまだまだなのかも知れません。

*3:いい仕事、優秀な研究者に学生か教員かは関係ないんですね。

*4:線虫には脳と呼べる器官のはっきりとした境界がないので、正しくは脳領域ということになります。

*5:雌雄同体なら固定で302個、オスなら固定で385個になります。

*6:この記事のトップ画像はその一部です。

*7:https://www.youtube.com/watch?v=q4KrhDZQ088

*8:意図はともかく、実際にAllen Insutitute of Brain Scienceではそういった取り組みが行われているようです。

*9:neuropeptideも脳機能に非常に重要なことがわかっています。

*10:脳の中のグリア細胞の数はバカにならず、神経細胞と同数程度存在すると言われています。

*11:そのため詳細なコネクトームがどこまで役立つかわからない